お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。
INTERVIEW
24

アフリカの森で
ゴリラと暮らして
考えた!
〜類人猿の視点から人類家族の起源に挑む〜 霊長類学者・山極壽一 さん

ゴリラには、どんなイメージがあるだろう? 強そう? 怖そう? かっこいい?
たいていの人にとってゴリラは動物園でしか見ることがない存在で、野生の姿は想像がつきにくい。学生時代の山極壽一さんも、最初は同じようなものだった。
しかし、ひょんなことからゴリラの研究を始めることになると、アフリカの森で野生のゴリラの群れの一員のようにして関わり、ゴリラ研究の第一人者になった。
一緒に遊びながら、彼らの家族や社会を子細に観察する。そうすることで、類人猿から人類家族の起源を解き明かすことに挑んでいる。
長年ゴリラと接するなかで、ときには嚙みつかれて大怪我をしたこともあると言う。まさに身体を張った研究を通して見えてきた、わたしたち人間の「社会のかたち」について伺った。 取材・文:川内イオ/写真:江森康之/編集:川村庸子

きっかけは雪山での偶然の出会い

山極先生、突然ですが、失礼します。(唇を震わせる感じで)「グフ~ム」!

山極 んん? ああ、ゴリラの挨拶か(笑)。それは発声の仕方がちょっと違うね。そんなに唇を震わせないで、もっと腹に響かせるように低音で言うんだ。こんな感じで。
「グフーム」(重低音)。
ゴリラは仲間に近づくとき、必ずこの挨拶をするんですよ。ほかにも、求愛するときには「ホロホロホロ~」と高い音で歌うように声を出すこともあります。

おお! これがリアルなゴリラ語! 山極さんは1978年から、アフリカの森のなかでゴリラの群れの一員のようにして研究を続けてこられたんですよね。

山極 そうですね。少し当時を振り返ると、僕がゴリラの研究を始める少し前、アフリカは独立運動や内戦で混乱していたから、日本のゴリラ研究がストップしていたんです。
でも、アメリカやイギリスの研究者は、現地で調査を進めていた。そのなかでも、ダイアン・フォッシー(*1)というアメリカの研究者が「ゴリラの群れの中に入って交流しながら、一頭一頭に名前をつけ、行動を記録する」という手法で彼らの社会を描き出し始めていた。僕は1978年、26歳のときにコンゴ民主共和国(当時のザイール)でゴリラの調査をしたあと、1980年に彼女がルワンダの火山国立公園に設立したカリソケ研究センターに入って、同じような手法で調査を始めたんです。

日本では決して盛んではなかったゴリラの研究をしようと思ったのは、なぜですか?

山極 若い頃はゴリラどころか、動物自体に特に思い入れはありませんでした。でも、いま思えば未知の世界を知りたいという気持ちがあって、小中学生時代は探検家に憧れていたな。なかでも『不思議の国のアリス』や『ドリトル先生』など動物と話ができるストーリーが好きでした。でも、しばらくそのことをすっかり忘れていましたね。
僕が中高生のときはベトナム戦争や高校、大学紛争の時代だから、本を読んだり映画を観たり大学の研究会に出入りしたりしながら、「人間って何だろう?」と考えていました。それでなんとなく煮詰まって、一度リセットしようと思って京都大学(以下、京大)に入ったんです。

大学ではスキー部に入って、距離競技(クロスカントリー)をやりました。それから雪山でトレーニングをするようになったんだけど、ある日、雪の上で双眼鏡をのぞき込んでいる人に出会った。その人が、たまたま僕が所属していた理学部の先輩でね。彼は、雪山でニホンザルの観察をしていたんです。
僕は理学部だったけど、まだ2回生で専門的なことは何も知らなかったから、「理学部ってそんなこともできるんだ!」って思ってさ。それからサルに興味を持ったんです。

当時は、いろいろなことに興味があって、宇宙とか物理、自然科学も好きだったし、文学や映画、演劇の世界にも惹かれていました。でも先輩から話を聞いて、自然科学という枠からはみ出るような「自然人類学」という学問が理学部で行われていることを知った。そのときに、ニホンザルの観察を通して人間社会を外から見るというのは新しい発想だな、と思って非常に惹かれました。何より雪の上でサルを追うっておもしろそうじゃないですか。
だから、学部生のときは雪山のニホンザルを対象に卒業研究をやり、百何十頭いたサルの顔と名前を憶えて、彼らの社会を調査しました。サルの顔が夢にまで出てくるくらい(笑)。
そしてもともと持っていた、動物と話せる世界や冒険家への憧れを思い出して、これはおもしろいと、大学院で本格的に研究を始めたんです。

最初の研究対象はサルだったんですね。それがなぜゴリラに?

山極 博士課程に入ったとき、当時の僕の指導教員だった人類学者の伊谷純一郎先生に「君は体が大きいし、ゴリラをやるのにいいんじゃない?」と言われたんです(笑)。
まあ、これは先生の冗談なんだけど、僕らの研究室が行きつけの飲み屋があって、ゼミやシンポジウムでほかの大学で働いている先輩方が京大に戻ってきたときに、みんなで集まって飲みながら、リクルートが行われるんですよ。「今度、自分が隊長になってどこどこに行くから、君、一緒に来なよ」と。
そのときに、「山極はゴリラ」という流れになってね。でも、最初に話した通り、当時ゴリラを研究している日本人は誰もいなかったから、ひとりでやることになりました。

最初のフィールドワークでは、1978年にザイール(現在のコンゴ共和国)にあったカフジ=ビエガ国立公園でしたが、そのときもチンパンジーと似たボノボという類人猿の調査隊にくっついていって、途中からひとり分かれて調査地に行きました。
そこでヒガシローランドゴリラの調査をしたんですが、まだゴリラが十分に人間に慣れていなかったから、1980年にルワンダのカリソケ研究センターに移動して、ダイアン・フォッシーのもとでマウンテンゴリラの調査を始めた。だから、僕のフィールドワークの師匠は、ダイアン・フォッシーですね。

1990 カフジの森でキャンプ

コンゴのカフジ・ビエガ国立公園でゴリラの総合調査を行ったとき。森の中のキャンプにて(1990年)

  • *1
    霊長類学者、動物学者、動物行動学者、生物学者(1932—1985)。ルワンダにて古生物学者のルイス・リーキーと共に18年間、マウンテンゴリラの生態系の調査を行った。何者かによって殺害され、事件は未解決となっている。マウンテンゴリラ研究の第一人者。

ガボンでの事件で気づいたこと

そういう経緯があったんですね。それから先生はゴリラの研究を長く続けることになりますが、ゴリラにはどういう魅力を感じたのですか?

山極 現在、アフリカには数万頭のゴリラがいるんだけど、ゴリラには大きく分けてニシゴリラとヒガシゴリラがいます。ニシゴリラのなかには、「ニシローランドゴリラ」と「クロスリバーゴリラ」、ヒガシゴリラのなかには、「マウンテンゴリラ」と「ヒガシローランドゴリラ」がいる。そのうちの大部分がニシローランドゴリラで、現在ヒガシローランドゴリラは数千頭、マウンテンゴリラは800頭ぐらい、クロスリバーゴリラはさらに少なくて200頭ぐらいしか生き残っていないと言われています。

この4種類のなかで、僕は1980年からルワンダで「マウンテンゴリラの群れの中に入り、一頭一頭に名前をつけ、行動を記録する」という方法で、類人猿から人類家族の起源を解き明かす研究をしてきました。その後、1985年に師匠であったダイアン・フォッシー博士が殺害されてから、コンゴのヒガシローランドゴリラ、ガボンのニシローランドゴリラを対象に調査を継続してきたのです。
ゴリラはいまから約900万年前に人類と共通の祖先から分かれたと言われていて、人間と共通する特徴もある。ゴリラは家族的な集団をつくって生活しているから、人間の家族の起源を考えるときには、ゴリラの集団を観察することで理解できることも多いのです。

ルワンダでは、朝早く起きてゴリラに会いに行って、夕方に戻ってくるという生活でね。ゴリラの居場所がわかればひとりで行くし、トラッカーという案内役の現地スタッフとゴリラのいる場所まで一緒に行くこともあったけど、ゴリラと接するときはいつもひとり。
最初はもちろんすごく緊張したけど、ゴリラは僕の存在を認めてくれて、2ヵ月もしないうちに僕のひざに分厚い手を置いてくれるようになった。ニホンザルとはそういう心の交流はできないからとても新鮮でしたね。
ニホンザルはヒエラルキーがはっきりとした社会で、相手の目を見ることは威嚇になってしまいますが、ゴリラの場合はまるで会話のような役割を持っていて、じっと見つめ合うことで互いの気分や状況を確認し、コミュニケーションを図るのです。

ゴリラのコミュニケーションはわたしたちと近い部分があるんですね。ゴリラとの交流で何か特別な思い出はありますか?

山極 1980年から2年間、とても親密に付き合っていたタイタスというマウンテンゴリラがいます。タイタスは1974年生まれで、僕が出会ったときには6頭の群れの一員だった。僕を最もたくさん遊びに誘ってくれたのがタイタスで、突然大雨が降ったときには、僕が雨宿りするために入った大木の洞に入ってきて、抱き合うようにして寝入ってしまったこともある。
2008年、26年ぶりにタイタスに会いに行きましたが、驚くべきことに彼は僕のことを憶えてくれていました。そして、実はタイタスに会いに行くことにしたのには、理由があったんです。

同じ年に、僕はアフリカのガボンという国でニシローランドゴリラの調査をしていて、2頭のメスに襲われたんですよ。頭と足を嚙まれてひどく流血したまま、なんとか山を下りて、船に乗って村の診療所に戻って、ガボン人の獣医に傷口を縫ってもらった。頭は5針、足は17針縫うような傷で命にかかわるものではなかったけど、長年研究してきたのに、ゴリラのことをきちんと理解できていなかったんだと思うと、ショックが大きかった。
それで、事件から1ヵ月後、わざわざタイタスに会いに行ったんです。自分がやってきたことは正しかったのか、原点となる場所で改めて確認したかったんです。

そういう背景があったんですね。タイタスに会いに行って、どう感じましたか?

山極 ゴリラのことを誤解していたわけじゃなかったんだ、と思いましたね。
タイタスやほかのゴリラの反応を見て気づいたんです。ルワンダのマウンテンゴリラと、ガボンのニシローランドゴリラは、文化や行動様式が違うんだって。マウンテンゴリラに通じた方法が、ニシローランドゴリラには受け入れられなかったということなんです。

タイタスと再会したあと、ルワンダのキャンプで写真家の星野道夫(*2)のことが頭に思い浮かんでしょうがなかった。彼は僕と同じ歳なんだけれど、拠点にしていたアラスカではクマの撮影に慣れていたし、テントを張っていれば絶対にクマは襲ってこないという自信があったと思うんだ。でも、ロシアで同じようなことをやって、クマに襲われて亡くなった。それはきっと、アラスカのクマとロシアのクマは文化や行動様式が違うんだよね。だから、星野道夫のことを思い出して、僕も同じ間違いを犯したんだな、と思いました。
ただ、あとで気づいたんだけれど、僕が噛まれた頭部は、ゴリラのオスの場合は脂肪に包まれていて、絶対に牙が骨まで届かない場所だった。だから、よく考えると僕を殺そうとしたんじゃなかったんだと、少しほっとしました。

_8176891

京都大学の応接室には、木彫りのゴリラの置物や写真が飾られていた

  • *2
    写真家、探検家、詩人(1952—1996)。1978年以後、18年間にわたりアラスカの大自然や人々の営みを写真に収め続けた。1990年、第15回木村伊兵衛写真賞受賞。ロシア・カムチャツカ半島でのテレビ番組の取材に同行し、ヒグマの事故により急逝した。

人間社会の成り立ちと現代の危機

長年、調査をしてこられた「人類家族の起源」について教えてください。

山極 複数の家族を含むコミュニティは、サルやゴリラなどほかの類人猿には見られません。僕は、それがなぜ人類特有の在りようなのかを考えました。
人間は認知能力を段々と高めながら「共感」や「同情」という能力を発達させて、広範囲で複雑な人間関係を一生懸命操作しようとしてきました。
共感や同情を高めるひとつの仕組みは、共同保育です。これは長い進化の歴史のなかで、人間が類人猿やサルが住んでいる森から、捕食動物が多い草原に出ていったことが関係していると思います。人類は、幼児死亡率の高い危険な状況のなかで、多産になった。さらに、脳が大きくなり始めたから、脳にエネルギーを供給するために、身体の成長が遅くなった。人間は、頭でっかちで成長の遅い子どもをたくさん抱えることになって、みんなで協力し合いながら共同保育をすることを始めたのです。

そのお陰で、別々の能力や事情を抱えている人たちが、子どもを育てるというひとつの目標で分担し合うようになって、お互いの共感能力を高めていく方向に向かったのではないかと考えています。
「食物の分配と共食」は、その共同保育を進める上で大いに貢献した人類特有の能力です。人類は、気前よくみんなで食物を分配して平等に食べるということをしながら、相手の食欲を自分のものにすることで共感能力を発達させていった。サルは一緒に食事をするということをしません。ゴリラやチンパンジーはときどき食物を分配しますが、食物を仲間のもとへ運んで一緒に食べるということはありません。食糧が豊かで安全な場所では、食物を運ぶ必要がないのです。
対面で一緒に食べるという経験を共有する。それによって、人類の祖先はほかの類人猿よりもかなり複雑で大きな社会を運営できるようになったのではないかと考えています。

危険が多い草原地帯で暮らすようになったことで、現在の家族や社会の原型ができたんですね。

山極 はい。そうして人類は「身体と脳」を「共同作業と言葉」を使ってつなげることを覚えたんです。
でも現代はコミュニケーションのあり方が変わってきていますよね。通信機器の発達やインターネットの登場で、身体から切り離されて脳だけでつながるようになった。それで社会の範囲が広がったわけだけど、まだ脳だけでつながる歴史はそう長くないから、信頼関係や共感というものを脳だけでは得られていない。一緒に何かした「経験」がないと信頼関係がつくれないから、そのギャップに苦しんでいるというのがいまの状態でしょう。

この不安定な状況で、不特定多数の信頼関係がない人たちとのトラブルを避けるためにこれまでさまざまなルールをつくってきました。しかし、少子化や孤食化で家族や共同体というフィルターが薄れて自分で自分を防衛しないといけなくなったから、ルールオンリーの社会になりつつあります。
しかも、もともと経済は社会を豊かにするために生まれたのに、経済を右肩上がりにするために個人の欲望を発散・充足させることを目的とした資本主義経済が加速しすぎた。それによって、みんな「社会」を忘れてしまいました。
そうやって孤立し、ただルールに従っていると、人間は考える力、決定する力を失っていく。いまの子どもたちは、そういう危機的な状況に晒されていると思います。

先生の危機感が伝わってきました。これからの時代に必要なことは何でしょう?

山極 「人間って何だろう?」という問いは僕が高校時代に抱えていたものですが、いままさに内と外から新たに問い直される時代だなと思います。「内」というのは、人間の身体そのもので、最近ではDNA自体が遺伝子編集で変えられようとしていますよね。「外」とは社会との関係で、AI(人工知能)やICT機器(情報通信技術)の登場でコミュニケーションが急速に変わっているということは、社会もどんどん変わっている。
つまり、人間というものを支える遺伝子とコミュニケーションが変化に晒されている。だからこそ、人間とは何かを問い直さなきゃいけない。そういうときに霊長類学という、人類に近いサルやゴリラから人間社会を眺めてみるという方法論が、改めて重要になってくるのだと思います。

人類の歴史というのは生命の歴史でもあり、人類進化の700万年、あるいはゴリラ、チンパンジーを合わせれば1000万年という進化の時間の中で、人類の身体と心がどうつくられてきたのかということを問い直す。そこからさらに、人類の未来も考えていく必要があるなと思います。

_8176931