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INTERVIEW
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紛争解決人の仕事は
「一番デカいモノづくり」
スラム、農村、紛争地で見てきた“リアル” 紛争解決人・伊勢崎賢治 さん

激しい内戦中の東ティモールとシエラレオネ、アメリカと戦争をしていたアフガニスタンで、武装解除に始まる「紛争解決」の仕事に就いていた伊勢崎賢治さん。
伊勢崎さんは国連職員、日本政府の特別顧問として、現場で武装勢力と対峙してきた。いかにも恐ろし気な仕事に聞こえるが、伊勢崎さんは自分の仕事を「一番でっかいモノづくり」と表す。紛争解決とモノづくりは、どうつながるのだろうか? そのヒントは伊勢崎さんの人生にある。
もともと建築学生だった伊勢崎さんは、仕事の基本はアジア最大と言われたインドのスラムや世界最貧国のシエラレオネの農村で学んだそうだ。
ふたりの息子さんに「全然真似しようとは思わない」と言われているという濃密すぎる人生を歩んできた伊勢崎さんに、現場で見てきた“リアル”を尋ねた。
取材・文:川内イオ/写真:山下隆博/編集:川村庸子

スター建築家志望からインドへ

伊勢崎さんは、アフガニスタンの戦争や東ティモール、シエラレオネの内戦時に、現地で紛争解決や武装解除にあたったんですよね。具体的にはどんなお仕事なんですか?

伊勢崎 簡単にいうと、「国づくり」ですね。戦争で国としての枠組みが機能しなくなったあとに、それをどう再建するかという仕事です。モノづくりという仕事のなかの一番デカいものと考えてください。
具体的には、現場でDDR(Disarmament/武装解除、Demobilization/動員解除、Reintegration/社会再統合)と呼ばれる活動をします。武装組織の武器を差し押さえ、組織を解体して兵士という役割を解き、新たな仕事を与えて社会を再構築する。とても長い時間がかかるので、そのきっかけづくりです。

僕がこの仕事に携わっていたときは世界的にまったくノウハウがない状態で、試行錯誤の連続でした。いまでは専門分野になっていて、3ヵ国のケースはいずれも先行事例として扱われています。こういう歴史的なケースに直接的に関われたことはとても幸運でしたね。

伊勢崎さんは「紛争解決人」と言われていますよね。どのような人生を歩んできたら紛争解決人にいきつくのか、想像がつきません(笑)

伊勢崎 小さいときから絵が好きだったんで、画家になりたいと思っていたんですよ。でも中学生になって絵で食うのは難しいかなと思うようになって、なんとなく絵描きがダメなら建築家になろうかと考え始めました。
それで東大や芸大(東京藝術大学)を目指したんだけど、共通一次試験(現・センター試験)が苦手でね。浪人しても受からなくて、唯一受かった早稲田大学理工学部建築学科に入ったんです。

大学では2年生ぐらいまでスター建築家になりたいと思って勉強をしていたんだけど、いろいろな課題設計をやるなかで一番になりたいと思っても、誰も評価してくれなかった。そうすると人間意固地になって、僕の表現を理解しないまわりがいけないんだと反発するようになってね(笑)。これからどうしようかなと思いながらも、就職はしたくなかったので大学院に進みました。

そのときにたまたま、社会問題としてインドのスラムを取り上げた写真集を見て、衝撃を受けたんです、これは美しいと。僕には無秩序のなかから、無数の人間がひとつの生物のようにつくり出した「巣」のように見えた。それで、スラムに行きたいと思ってボンベイ大学のソーシャルワーク専攻科に留学しました。

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アジア最大のスラム・ダラビ。1985年に近くのビルから撮ったもの。ここに住み込み、活動した

スラムに住んでコミュニティ・オーガナイザーに

スラムが見たくてインドへ?

伊勢崎 はい。僕はノンポリ(*1)だし、途上国の社会問題をどうにかしようなんていう思いは一切なかった。ソーシャルワーク科のフィールドワーク先に「スラム」とあって、ここに行けばスラムに入れる、それだけです。

初めてスラムを目にしたときは、衝撃を受けました。約40万人が住む巨大な貧民街で、あらゆる非合法活動が行われていて、警察も恐れをなしてなかに入れない。スラムに入るためには、大学がフィールドワークのために住民の許可を得て内部に作った拠点を利用するしかありません。でも、学校は2年のマスターコースで最初の1年はみんな座学をやらないといけない。それが耐えられなくて、ひとりでスラムに通い始めました。先生にはずいぶん怒られたけど、最後は僕の奨学金が途切れないように取り繕ってくれて、そのことには感謝しています。

スラムではヒンディー語しか通じないので、必死に勉強して3ヵ月で覚えました。そうして学校を飛び出してスラムに出入りしているうちに、インドのNGOから「コミュニティ・オーガナイザーとして働かないか」と声がかかって、奨学金と同じくらいの給料がもらえるようになったんです。それから、スラムのなかに粗末な家を借りて住み始めました。

スラムの住人として仕事!? コミュニティ・オーガナイザーって何をするんですか?

伊勢崎 社会的弱者はみんな日々の生活を回すのに忙しくて、法律で認められている権利のことを知らないし、それを要求する術も力もない。だから僕らは、住民に対してみんなにも権利があるんだよ、連携すれば政府は無視できなくなるよ、ということを伝えて、実際に行動に移します。

例えば、行政による強制撤去の恐怖から解放するために、住民を組織してそれを阻止します。そして、理不尽な強制撤去が2度と起こらないようにデモを組織して行政とやりあったり、法廷闘争もします。強制撤去の心配がなくなったら、今度は上下水道などインフラの整備を要求し、実行するまで交渉する。
こういった活動のノウハウは、大学の最初の1年間で叩き込まれました。ボンベイ大学は100年以上の伝統ある大学なので、短期間でコミュニティ・オーガナイザーやソーシャルワーカーを養成するノウハウを持っているんですよ。

誰からも寄付を受けたりせず、正当な方法で権利を勝ち取って、1、2ヵ月単位でスラムの環境が改善していくのは爽快でしたね。僕は「正義感」という言葉は好きじゃないけど、基本的な人権を確保することがスラムという美しいものの維持にもつながるわけで、それは僕のなかで自然に両立していました。
結局、4年間インドにいて、その後に強制退去になるのですが、「紛争解決」に通じる説得術や交渉術はすべてインドで学びました。

  • *1
    ノンポリティカル(non-political)の略で、政治に関心がないことやそういった人を意味する。
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ダラビでの住民のオーガナイズィング(住民組織化)集会の様子。住民が仕事から帰宅した夜に行われる

濃密すぎる4年間ですね。その後は?

伊勢崎 国際NGOのプラン・インターナショナルで職を得て、シエラレオネに派遣されました。仕事は農村開発で、もちろん経験はないんですが、ここも短期間で即戦力に仕上げるマニュアルを持つ団体で、6ヵ月の試用期間中に資金、人事、顧客の管理方法、そして専門家をうまく使う方法をマネージャーからみっちり仕込まれました。

シエラレオネは世界最貧国で、農村には本当に何もありません。電気も水道もない環境で人口だけが増加し、伝統農法では食料をまかないきれないので、みんな飢えていて子どもがばたばたと死んでいきます。
しかも当時、多国籍企業が入ってきて、田んぼをタバコ畑に変えていました。多国籍企業が悪いというわけではないんですが、タバコの葉の価格が落ちたとき、農民は食糧を買うお金もなくなってさらに飢えてしまう。

この状況を変えるために、タバコの栽培で少なくなってしまった田んぼの耕地面積を集約化して協同組合をつくり、機械化して収穫量を上げるという取り組みを地道に進めながら、同時に学校や道路、橋をつくったり、医療環境の改善も進めました。すると、幼児の死亡率が、がくんと下がった。それがNGOとしての成果です。
シエラレオネには4年いて、ケニア、エチオピアでも農村開発を担当し、アフリカでは計10年を過ごしました。

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インドの少数民族・ワルリ族の絵画。自宅の書斎にはいくつもの絵画が飾ってあった

「目の前の人の役に立つ」という大義

インドでスラムという都市の問題、アフリカで農村の問題に対峙してきた伊勢崎さんが、なぜ「紛争解決人」に?

伊勢崎 プラン・インターナショナルの日本事務所に移ったのですが、元役人の理事と意見が合わず辞めて、笹川平和財団で中東和平に関する研究をするようになりました。そのときに外務省の仕事も受けるようになって知り合いが増えていくなかで、1999年10月のある日、外務省から電話がかかってきたんです。
「東ティモールのPKOミッションに興味はありませんか?」。

これは国連東ティモール暫定統治機構のことで、依頼を受けて、当時インドネシアから独立を図り、インドネシア軍、インドネシア併合派民兵と独立派の間で紛争が起きていた東ティモールに行くことになりました。
僕はインドネシアと国境を接する最も危険な県の知事として赴任し、地方行政を統括しましたが、同時に西ティモールに潜む併合派民兵の武将解除にもあたりました。

僕が幸運だったのは、僕の下についたオーストラリア軍の将軍の存在です。彼は15歳ほど年上でしたが、若主人に仕える執事のように軍隊の仕組み、軍人の文化、交戦規定、国際人道法という戦争のルールなどを懇切丁寧に教えてくれたんです。彼のお陰で、軍事組織とは何かがわかりました。

幸い、これまで自分が関わった3つのミッションをコンプリートさせることができましたが、紛争解決の分野は判断基準がしっかりしていないので、例えば人権という観点からみたら、どうしようもないことをしたという捉え方もできます。

戦争を止めるという目的のために、何人殺したのかわからないような連中に対して、恩恵を与えてきました。アフガニスタンなんて、たくさんの民間人を殺してきた軍閥が、いまでは閣僚になっていますからね。でも、戦争を止めるにはそうするしかなかった。正義と平和は両立しない現実もあります。
ただ目の前の人たちの役に立つ。正義ではなく「大義」を大切にして、仕事をしてきました。

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東ティモール国連暫定統治機構の県知事として、国連平和維持軍を統括していた頃(2000年頃)。パキスタン軍の将校たちと

「基本構造」の持つ力

アフガニスタンのミッションの後、大学で平和構築や紛争予防について教えていらっしゃいますが、どんなことを学生に伝えてきたんですか?

伊勢崎 情報を見分ける力ってよく言われるでしょう、メディアリテラシーとか。でもファンダメンタルな、つまり「基本構造」がベースにないと、いかに情報を詰め込んでも、広く多角的に見ようとしてもダメなんだよね。
例えば、国際人道法っていう戦争のルールがあるんだけど、聞いたことないでしょう? 人類は戦争をどうやって回避しようとしてきたのかという歴史が、国際人道法です。これは国際的には憲法9条よりも優先される取り決めなんだけど、日本人は戦争自体を否定しているから、それを勉強しない。戦争ジャーナリストも知りません。でも、戦争を否定することと戦争を理解することはまったく違います。

国際人道法は人間が積み上げてきたルールだから、それがわかっていて戦争の現場にいくのとそうでないのとでは、見える景色が全然違う。大学では、そういった日本では意識の低いことを教えてきました。
最近はグローバルキャンパスといって、僕らのクラス(平和構築・紛争予防専修コース/PCS)とパキスタンやアフガニスタンなどの紛争国の大学をビデオコミュニケーションで結んで、ともに学ぶプログラムを実施しています。インドの母校にも参加してもらって、30年ぶりに恩返しができました(笑)。

インドに行った1982年からアフガニスタンのミッションが終了する2004年までの22年間、伊勢崎さんはほぼ海外で過ごしてきたわけですが、海外で仕事をする醍醐味は?

伊勢崎 あんまりないですね(笑)。アフガニスタンのような戦場はミッションをやっているという緊張感と高揚感がありますけど、現地に長期滞在しているときは、そこで生活して、目の前の仕事をするだけなので異国感がないんですよ。僕は、ご飯もその土地でとれたものが一番美味いと思って食べます。アフガニスタンだけはまずいと思ったけど(笑)、ほかのところでそう思うことはまったくなかったし、日本食を食べたいと思ったこともありません。
子どもの頃から親一人子一人の母子家庭で財産もまったくなかったから、土地に根ざす根拠がなかったんですね。それが海外で暮らすうえではよかったのかもしれない。

醍醐味ではないですが、何人かの良いメンターに巡り会えたことは幸運でした。インドのスラムにいたとき、一緒に活動していた仲間で、ジョッキン(Jockin Arputham)は、スラムの生え抜きの伝説的なコミュニティ・オーガナイザーで、アジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞しました。プラン・インターナショナルで僕をトレーニングしてくれたインド人の上司は、アメリカのヘレンケラー財団の一部を任されて、いまもアメリカで活躍しています。東ティモールで出会ったオーストラリア人の将軍も忘れられません。

いまも世界各地で紛争が続き、先進国でもさまざまな出来事が起きています。若者にはどういう視点を持って欲しいですか?

伊勢崎 人間には、見たいものを見て、見たくないものは見ないという傾向があります。特に日本人は、いまを肯定する情報を見たがる。新しいiPhoneを買ったら、いかにそのiPhoneがいいかっていう記事を読みたいじゃないですか。そのせいでしっぺ返しを食らうこともあると思いますが、いまの若者についてはあまり心配してないんですよ。

昔は誰かが発信する情報を並べて広く収集するのがテクニックだったかもしれないけど、いまは自分で能動的に情報を調べられる。特に国際関係の分野は、ほとんどインターネット上に情報が公開されていて、探せば自力で容易に見つけられます。情報を精査して区別する力は求められますが、学生の情報収集能力というのは、我々の比じゃありません。国際情勢や国際組織への関心も高いし、国際感覚も優れている。いまの若者の時代になれば、日本は良い国になると思いますよ。

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