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INTERVIEW
05

テレビドラマを
研究する?
日常とリンクした “生モノ”の魅力 演劇・テレビドラマ研究家・岡室美奈子 さん

みなさんは普段、どのくらいテレビドラマを観ているだろうか? 放送を見逃しても録画やオンデマンドで視聴できるし、SNSでつぶやきながら楽しむというスタイルも定着している。ご飯を食べながら観たり、休みの日に撮りためたものを一気に観たり。テレビドラマは、日々の生活とともにある身近な娯楽だ。 岡室美奈子(おかむろ・みなこ)さんは、大衆的な娯楽であるテレビドラマを大学という場所で扱うユニークな研究者だ。「授業でテレビドラマを学ぶ」とは一体どういうことなのか? 早稲田大学演劇博物館館長で、20世紀を代表するアイルランドの劇作家、サミュエル・ベケット研究の第一人者でもある岡室さんに、大学でテレビドラマを研究することの意義について話を伺った。 取材・文:清田隆之/写真:鈴木諒一/編集:川村庸子

想像力を鍛え、作品を豊かに受容する

テレビドラマを研究するとは、具体的にどういうことなのでしょうか?

岡室 わたしたちがドラマ作品と出会うときって、基本的には一回しか観ませんよね。もちろん好きな作品を繰り返し観る場合もありますが、大概は最初の印象で「おもしろかった」「つまらなかった」と評価を下してしまう。しかし、一回の視聴で受け取れる情報量って、実は思いのほか少ない。自分の価値観のなかだけというか、わかる範囲のことしかキャッチできていなかったりするわけです。
しかし、映画やドラマにしろマンガにしろ、本来そこにはものすごくたくさんの情報が詰まっています。一度観ただけでは、到底すべてを受容することなんてできません。

わたしがゼミや演習でやっている「作品研究」では、詰まっている情報をできる限りたくさん受け取ることを目標にしています。授業ではテレビドラマだけでなく、演劇、映画、マンガ、小説など、ハイカルチャーとローカルチャーの区別なく幅広く扱いますが、いずれにせよ、ひとつの課題作品を繰り返し観たり読んだりしながら深く掘り下げ、できるだけ豊かに受容することを目指していく。それが研究の目的です。

おもしろい作品を評価したり、ダメな作品を批判したりというわけではないんですね。

岡室 そうですね。作品研究というと「上から批評する」みたいなイメージを持たれることもありますが、それはわたしたちのやりたいことではありません。大事なのは、受け取る情報量を広げていくこと。そこで必要になってくるのが“想像力”です。

例えばドラマを観ていると、「自分だったら絶対こうするのに!」とか、「何でこの登場人物はこうするんだろう?」とか、頭のなかでいろいろ考えてしまいますよね。つまりわたしたちは、想像力を駆使しながら作品と対峙しているわけです。このように、想像力に何かを訴えかけてくるのがフィクションの力であり、作品と向き合うことは想像力を鍛える作業です。それを高めていくことで作品自体を豊かに受容できるようになるし、実生活でも想像力を駆使できるようになるんじゃないかと思っています。

少し話が大きくなりますが、今の時代「想像力の欠如」が大きな問題になっていると感じます。いじめや炎上なんかもそうですよね。攻撃された人はどんな気持ちになるのか、どんなに苦しいかということを想像できないと、歯止めが効かなくなってしまう。なので、若い頃から想像力を鍛えて、自分の価値観やイメージを広げていく場として大学の授業を役立てたいというのがわたしの考えです。テレビドラマは確かに日常的な娯楽ですが、一方で深く想像力に関わる分野でもあります。


構内にある早稲田大学坪内博士記念演劇博物館は、日本で唯一の演劇を専門的に扱う博物館。新宿区の有形文化財でもあり、充実した企画展が開催されている Photo by Futoshi Sakauchi

震災後のドラマに“幽霊”が増えたワケ

現在のテレビドラマは、どのような状況にあるのでしょうか?

岡室 2010年代に入って、日本のテレビドラマは大きく変化しました。きっかけは東日本大震災でした。震災のあと、エンタメの世界には自粛ムードが広がり、演劇の公演が中断したり、テレビでもずっとAC(公共広告機構)のCMばかり流れたりしているような状況が続きましたよね。あの時期を乗り越えて復活したテレビドラマに、わたしは確かな変化を感じました。

顕著に言えるのは、幽霊や死者が出てくるドラマがすごく増えたことです。例えば2011年10月〜12月に放送された宮藤官九郎脚本のドラマ『11人もいる!』(テレビ朝日)では、広末涼子が死んだお母さん役として登場。また、同時期に始まったNHKの連続テレビ小説『カーネーション』(脚本:渡辺あや)にも、ヒロインの亡くなった父親が幽霊になって出てきました。
死者と言うとホラー要素のようにも感じますが、ここで描かれたのは決して恐ろしい幽霊ではなく、亡くなった人が家族を見守っていくという温かい幽霊です。

震災前、特にゼロ年代のドラマは刑事モノと病院モノばかりだったんです。思うに、人の生死に関わるような非日常の現場でしかドラマが成り立たなくなっていたんだと思います。ところが震災を境に、「生と死は断絶したものでなく、地続きのものだ」と捉える感覚が社会に広まった。そのことが、ドラマにも大きな影響を与えたように感じます。


早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長室の本棚には、戯曲などの貴重な初版本が並んでいる

死生観の変化がドラマの世界でも起こった…ということでしょうか?

岡室 そうですね。例えば震災後、被災地では「亡くなった人の霊が近しい人間の元を訪ねてきた」という現象が多数報告されています。これは2013年にNHKスペシャル『亡き人との“再会”〜被災地 三度目の夏に〜』で取り上げられて話題にもなりましたが、津波などで突然命を奪われてしまった人が目の前に現れることによって、残された人たちの心の傷が癒やされるということが実際にものすごくたくさんあったようです。

思うにこれは、「死んだら終わり」ではなく、「死者とともに生きていく」という感覚が広がったことの表れではないでしょうか。ただ、そういった幽霊の事例が多数報告されているわけですが、現実的に対応するのはなかなか難しい。「幽霊に会った」というのは言いづらいし、誰かと共有しづらいものですからね。そのとき、そういった人々の心の変化をきちんと掬い上げていったのが震災後のテレビドラマでした。

フィクションならば、死者側の目線も表現できるし、死者と共生したいという気持ちにも寄り添って肯定していける。特にテレビは日常生活に密着したメディアであり、そういう仕事が丁寧になされたというのはとても素晴らしいことだったと思います。テレビドラマは、これを機にとても良くなっていきました。

二分法を脱却し、グレーゾーンを肯定する

そもそも、なぜテレビドラマの研究を始められたのでしょうか?

岡室 テレビは小さい頃から本当に大好きで、幼稚園を中退してテレビばかり観ていたような子どもだったんですよ(笑)。母親もすごくドラマ好きで、小学生の頃から親と一緒に深夜番組を観ていました。俳優さんの名前にも詳しくなり、そこから演劇にも興味が発展しました。

そして高校のときに、担任だった数学の先生から「劇作家の別役実(*1)がおもしろい」と教えてもらい、その不条理な世界観にハマって彼の著書を読んでいくと、あちこちにベケットの名前が出てきたんです。大学で英文科に進んだことをきっかけにベケットを読み始めたら、これが全然わからなかった(笑)。でも、いまはわかりやすさが重視される時代ですが、当時はわからないということに価値がある時代だったんです。それでベケットの“わからないのに感動する”という部分に惹かれてどんどん読み進め、卒論で扱い、彼の出身地であるアイルランドに留学し、そのままベケットの研究者になってしまいました。

ベケット作品と言えば戯曲『ゴドーを待ちながら』が有名ですが、実はおもしろいテレビドラマもたくさん書いています。もっとも、わたしのテレビドラマ研究はそこから始まったわけではなく、ただただ自分の好きなものがいろいろ結びついているというだけですが…本当に趣味と実益が一致していて、ありがたすぎる状態です。いまは録画も簡単にできるので、基本的にはすべてのドラマを観ています。時間が足りなくて、1.3倍速で観ることもありますが(笑)。

教鞭を執られている早稲田大学では、『オカルト芸術論』という授業が人気を博していると聞きました。

岡室 奇妙な授業に感じるかもしれませんが、これは要するに「グレーゾーンについて考える」ということなんです。幽霊を見るとか見ないとか、信じるとか信じないとか、生きているとか死んでいるとか…近代的な価値観というのは何かと「二分法」で考えていきますよね。この授業では二分法を脱却し、「いるかもしれないし、いないかもしれない」といったグレーゾーンを肯定していこうということを一生懸命やっています。

例えばこの世界にはもともと、生と死を断絶として考えるのではなく、ある種のサイクルとして捉える発想がありました。しかし、近代合理主義のなかでグレーゾーンが除外されていき、生と死が断絶した。だから、震災後の日本で先ほど挙げたような生と死は連続しているという死生観が生まれたのは、ある意味で必然だと思うんです。

現実世界の二分法からこぼれ落ちてしまうグレーゾーンにこそ豊かさがある。それはフィクションを通じて触れられるもの。合理的な思考では割り切れないものを描くのが、芸術の仕事だと思います。

例えば宮崎駿の『もののけ姫』なんかも、自然と文明、破壊と創造、神と人間、人間と動物…といったように、両義的なものの存在を描いた作品ですが、主人公のアシタカが媒体となって相反するものを結びつけて、より豊かな世界として再生させていく。そういう視点で様々な作品を捉え直していくのが『オカルト芸術論」の目的です。

  • *1
    劇作家。サミュエル・ベケットの影響を受け、日本の不条理演劇を確立した第一人者。2008年に『やってきたゴドー』で鶴屋南北戯曲賞を受賞。

現実世界と呼応しながら成立するテレビドラマ

テレビドラマのおもしろさとはどういうものでしょうか?

岡室 テレビドラマは、「評価の定まったものを研究する」が基本の学術世界にあって、正直扱いづらい対象です。映画や小説に比べればまだまだ格下という位置づけだし、わたし自身、ドラマを芸術だとは考えていません。しかし、テレビには映画のように完成されていない、“非完結性”という魅力があります。

テレビドラマは、閉じていません。というのも、例えば放送中に平気でニュース速報などが入ってきますよね。有名な話では、大河ドラマ『龍馬伝』(NHK)で、福山雅治演じる坂本龍馬が殺されるシーンで、偶然ニュース速報が出てしまい、非難轟々でした(笑)。

最近では去年放送された『民王』(テレビ朝日)というドラマの最終回で、遠藤憲一演じる総理大臣が国民に信を問うシーンがあって、それが安保関連法案の議決をめぐる国会中継と偶然重なってしまったことがありました。ドラマの総理はテレビを通じて国民に直接語りかけ、リモコンのdボタンを使って信任をめぐる国民投票を行ったわけですが、それが本当にタイムリーで、当時話題になりました。

このように、テレビドラマは日常と地続きで、外とのつながりを常に許容しながら成立していくというのがおもしろい。結果的に『民王』は数々のドラマ賞を総ナメにしたわけですが、現実世界との奇妙なシンクロが理由のひとつになりました。ドラマの国会と現実の国会を同じ画面で捉え、総理大臣や民主主義のあるべき姿について視聴者一人ひとりが考える…このドラマにはそんな効能もありました。こういう現実世界とのシンクロも含め、いいドラマだったのだと思います。

特に民放だと、視聴者の反応を見ながら演出や脚本を変えていくケースも多いですよね。それで命を長らえる登場人物もいるくらいで(笑)。そういう、外に開かれていて、なおかつ“生モノ”である点が、テレビドラマ特有の魅力だと思います。

学問の対象がそうした身近な題材だったら、勉強にも一段とリアリティを感じられるような気がします。

岡室 大学でテレビドラマを扱う意味としては、ひとつに「よき視聴者を育てたい」という思いがあります。必ずしもいいドラマが視聴率を取るわけではないので、良質な作品をちゃんと受け取れる人を育てていきたい。もうひとつは、いいドラマのつくり手になって欲しいという思いもある。「いいドラマとは何か」「それをつくるためにはどうしたらいいか」ということをきちんと自分で考えられるようなつくり手を生み出したいと思っていて、実際にテレビ制作の現場へ巣立った卒業生もたくさんいます。

もちろん、ひと口に「いいドラマ」と言っても、人それぞれ受け取り方は違うだろうし、簡単に定義づけられるものではありません。でも、基本的には心を動かされるのがいいドラマだと思うんですよ。それはただ泣けるとかではなくて、何か深いところで自分の考え方を変えてくれるとか、自分の視野を広げてくれるということです。

テレビにはあまりそういうものは期待されていないと思うんですが、やはりいい作品に出会うと、それがドラマであれ、ドキュメンタリーであれ、何か深いところで自分が突き動かされるということがあると思うんですね。

例えば2013年に大ヒットした『あまちゃん』は、放送終了後に「あまロス」という現象を巻き起こしましたが、優れた脚本家の作品には、そういう力が宿っている。ただ現実を模倣しているのではなく、フィクションだからできることを追求し、それによって自分自身が変わっていくような作品に出会いたいですね。